Brionglóid

海賊と偽りの姫

海賊と偽りの姫

新たな始まり

07

 エルセはここのところ、ずっと苛々していた。
 特定の大きな要因があったわけではない。言うなれば、自分をとりまく様々な理不尽に対して彼女は怒っていた。

(なんで、私が)
 と、その都度お決まりの文句を胸の内で吐き散らすのだが、もちろん口には出さない。そのくらいはわきまえているつもりだ。

 父ダニエル・シュライバーは、娘を商売に携わらせる気はないらしい。真面目な男に嫁いでくれればと、最近はそればかりだ。

 先日両親に引き合わされた青年は、育ちも良く、確かに性格も優しそうだがなんとも頼りない感じだった。父は本気であれを娘婿にと思ったのだろうか。
 二つ下の弟も、いつまでも大人になりきれず好きなことばかりしているのに、彼が跡取りだという事実は動かない。

(私にやらせてもらえれば、もっとうまくしてみせるのに)
 それが許されないならせめて、周りの男達にもっと気概を見せてほしい。それなら、自分も彼らに任せて一歩引こうと思える。そうではないから、歯がゆさだけが日に日に大きくなっていくのだ。

 彼女の苛立ちが表情から伝わったのか、部屋の隅にある事務机に座った若い男がさっきからずっと、おどおどしながら書類仕事をしている。
 彼は父から留守を預かっているのだが、雇用主の娘という厄介な来訪者をすっかり持て余していた。

 自分を待たせているのがそんなに気になるなら、黙ってないでそれなりの行動をとればいいだろうと、エルセは彼にまで怒りの矛先を向けてしまう。
 このまま待っていても埒が明かない、と痺れを切らした彼女が、奥へ続く扉に向かおうとする矢先のことだった。
 扉が唐突に開き、中から彼女によく似た若者が出てきた。

『なんで来たんだよ、姉さん!』
『迎えに来たのよ、フリッツ。午後からは、ハンスおじさんに帳簿のつけ方を習う約束でしょ』
 腰に両手をあてて、エルセは弟を叱りつけた。
『なのに、こんな所で何やってるの!』
『別にいいだろ』

 姉と同じく亜麻色の髪のフリッツは、もう十七だというのに拗ねたように唇を尖らせる。エルセは溜め息をついて軽く首を振った。

 本当は、商人の仕事に興味のない弟が父の事務所に通い詰める理由を、エルセは知っていた。
 フリッツは他の少年達と同じく、騎士物語や海賊の冒険譚に心躍らせる幼少期を送った。大人になりきれていない彼は、父親の取引相手が名うての海賊と知って以降、隙を見てはここに通っているのである。
 それこそ、子供のように目を輝かせて。

『あんな地味な仕事、俺には向かないよ。ハンスおじさんは姉さんに譲る。前から帳簿づけに興味持ってたじゃないか』
 弟の生意気な言い分に、エルセはどきりとした。
 確かに興味はあった。帳簿づけというよりは、商人の仕事そのものに、である。

 幼い頃から父の取り扱う異国の品々を見てきた。それは思いも寄らない出会いの繰り返しで、エルセはすっかり夢中になったのだ。とりわけ、日用品や装飾品に心を奪われた。

 だがやがて、ちょっとした欲が彼女の中で頭をもたげてきた。
 商人は基本的に男性だ。男性の目線で仕入れをしてくる。
 実際に商品を使う女達は、黙ってそれを受け入れるしかなかった。商品の見た目や使い勝手など、もう少しこうできたら、というような要望が一切通らない。
 それがもどかしくなってきたのだ。

 自分が直接買い付けに行きたい──それはエルセの密かな夢だった。
 だが、今はその話をするときではない。

『私のことはどうでもいいの、今はあなたのことよ。まさか、まだ海賊になるなんて子供みたいなこと、言っているんじゃないでしょうね?』
『悪い?』
 悪びれもせず答えるフリッツに、エルセはつい声音を大きくした。
『当たり前でしょう。あんな野蛮な連中の仲間入りをしたいだなんて!』
『そんなにでかい声出さなくても聞こえてるよ』
 フリッツは気まずげに言った。

『それに、海賊でもクラウン=ルースは違うんだからね。父上は、ルースにだったら姉さんを嫁がせてもいいって言ってたくらいなんだ』
 エルセは目眩をおぼえた。
 街から出たこともないような軟弱な男だけでなく、真逆の海賊までが彼女の夫候補に上がっていたとは。

『そんなの、お父様だって冗談で言ったに決まっているでしょう。いったいどこの親が、娘を海賊に嫁がせたいと思うのよ?』
『どこの親って、うちの親だ』
 フリッツは肩を竦める。
『ルースは海賊だけど商人でもあるんだ。姉さんが一目惚れした文様染めの綿布(キャラコ)、あれは彼の積荷にあったものだし』

 南国の色鮮やかな布地は、最近この街でも流行ってきていた。伝統衣装の一部に用いることで、単調で古臭いと思われていた衣装がぐっと華やかになった。
 けれどそれは、どんな模様でも、どんな色でもいいわけではない。使いどころに困るような商品も正直多かった。

 そんな中で、この間届いたのは彼女が思わず歓声をあげたくなったほど素晴らしいものだった。ひと目見て絶対に売れると確信したのは初めてで、もちろんエルセもその時の興奮は憶えている。

(あれを買い付けたのが、野蛮な海賊ですって?)
 にわかには信じられなかった。いや、きっと偶然に決まっている。

『とにかく、今日はもう帰りましょう』
 エルセがフリッツの手を掴もうとすると、彼は後退って抵抗した。
『その、今日はまだ駄目なんだ。姉さんだけ、先に帰ってくれない?』
『どうしてよ。お父様もいらっしゃらないんでしょう?』

 言いながらエルセが留守番の男に視線で問うと、彼は怯えたように下を向いてしまった。この男、全く役に立たない。
 彼女は弟を振り返った。
『まさか、また姉さんに隠し事?』
『だ、駄目! そっちは!』

 わざとらしく身を乗り出して奥の扉を気にする振りをすると、フリッツは大慌てで彼女を遮った。
 すると、奥の応接室に続いているその扉が再度開いた。

「お邪魔しています、ご婦人(メフラウ)
 現れたのは二人の青年だった。騒ぎを聞きつけて出てきたらしい。
 一人は黒髪に褐色の肌、もう一人は栗色の髪に日焼けした肌をしており、いずれも引き締まった身体つきをしていた。

 商人や役人には到底見えない。かといって、農民にも見えない。
 ようやく彼らの腰の剣に気がついたが、それがなかったとしても多分、顔つきが違うのだろうとエルセは推測した。

 多くの死地を乗り越えてきた者特有の褪めた眼差し。酒やら金やら女といったものに溺れていない、理性的な表情。その奥に見え隠れしている、ある種の熱のようなもの。
 物腰こそ柔らかいが、彼らが荒ごとに慣れているのは一目瞭然だ。街ではあまり見かけない系統の男達である。

 エルセは一瞬にして目を奪われた。異性にここまで強烈な引力を感じるのは初めてだった。

「はじめまして、彼の姉でエルセと申します。失礼ですけど、どちらさまでしょうか?」
 動揺を悟られないよう意識しながら、エルセは訊いた。
 すると、褐色の男の方が静かな口調で名乗った。
「カーセイザーと申します。お父上とお仕事をさせていただいています。こちらはディレイニー。申し訳ありません、弟さんを引き止めてしまったのは我々です」
 彼は感情の見えにくい声でそう詫びた。
 訛りのない公用語だ。商業都市で商人の家に育ったエルセも、それは基礎教養として身につけていたが、聞きやすい知的な発音だと思った。

 ぼんやりと佇む彼女の横から、フリッツが囁くように補足する。
『暴漢に襲われたんだって。港まで帰るのにそのままだと目立つから、匿ってほしいって』
 襲われたという言葉を時間をかけて飲み込んだ後、エルセは栗色の髪の男が着ている上着に散らばった、赤い斑点に気がついた。

「まさか、血……?」
 さっと青褪めた彼女に、男がすかさず弁解する。
「ああ、ご心配に及ばず。怪我ではないのですが」
 ははは、と白々しく笑ってみせた彼の隣で、褐色の男がエルセに申し出る。
「お父上が戻るまでと思っていましたが、ご厚意に甘え過ぎたのかもしれません。やはり、馬車を呼んでいただけますか?」

 その言葉にはっとしたのはフリッツだ。彼は褐色の男に取り縋った。
「駄目ですよルース! 今港に戻ったらかえって目立ちます!」
(では、この青年がクラウン=ルースなの?)
 エルセは呆然として男達を見つめた。

 彼女が思い描いていた海賊は、港近くの酒場にたむろしているような、もっと下卑た、汚らしい存在だった。学がなくて、道徳心の欠片もないような。
(いいえ、惑わされては駄目。彼らは紳士ではないわ)

「人を……殺したのね?」
 眼差しに力を込めて問うと、褐色の青年はふと小さく笑みを浮かべた。
「我々は、野蛮な人種ですので」
 その笑みに、エルセは背中がぞくぞくした。無意識の内に生唾を飲み込む。

 それを認めたくなくて、彼女は彼から視線を外し、できるだけ毅然と聞こえるように告げた。
「馬車を呼びます。すぐにここから出ていって」
『姉さん!』
 フリッツが非難の声をあげた。それから、青年二人を振り返った。
「ごめんなさい、ルース。父の帽子と外套を持ってきます。それで少しは隠せるといいけど」
「ありがとう」
 褐色の青年はエルセの一方的な申し渡しに反論もせず、素直に礼を言った。

 エルセはその傍ら、あの役立たず男に馬車を呼んでくるよう指示する。この街はよそから来た者も多いので、辻馬車をつかまえるのは簡単だった。
 それほど時間をおかずに馬車が到着すると、海賊達は借りた帽子と外套を纏って足早に事務所を出ようとした。

 が、扉の手前でフリッツが追い縋ってきた。
「クラウン=ルース、また会ってくれますよね? 僕、海賊になりたいんです」
 褐色の青年は箱入りで育った世間知らずの若者に、苦笑いを向けた。
「あまりお勧めはできませんね。お父上とよく話し合うことです」
 それだけ言って身を翻すと、彼らは姉弟のほうを振り返らずに出ていった。